2015年02月07日

「説き伏せられて」(2009・英)

〜〜ケリンチ邸の当主ウォールター・エリオットの次女アンにはかつて将来を誓い合った男ウェントワースがいたが、親の説得によって結婚を断念。その心傷のため独り身のまま生きてきたのだが、経済的事情で屋敷を他人に貸す事となり、やって来たのがウェントワースの姉夫婦だった。〜〜

人付き合いの下手な人々を描かせては天下一のジェーン・オースティン。
今回もお互いの誤解と未だ遺る慕心に気付くまでの物語、恋愛ものの王道である。
気不味い再会から度々顔を合わせる事になる苦悩と喜び。
本心を隠して交わす言葉も他人行儀な懊悩の日々。
この物静かな心の葛藤をブラウン管の向こうに向かって語る趣向。(あ、これテレビ映画なんだよ)
主人公アン役のサリー・ホーキンス、ちょっとおとなしい犬みたいな顔。
 面白いというか不思議に思ったのは、アンの知人娘がウェントワースに積極的なアプローチを始めて、
彼がが紳士的な態度で接しているのを、アンは忸怩たる思いで見ている、というかみていられない。
娘方が婚約するやもと周囲に言いふらす段階でようやくウェントワースが事の事態に気付き、
「僕はそんな気はさらさらなかったんだどうしよう?」と友人に相談。
友人のアドバイスがなんと「君は、この件のほとぼりが冷めるまでこの土地を離れるがよい」
男はすぐさま逐電。この時件の娘は阿保な事故(ウェントワースに受け止めて貰おうと突堤からジャンプ、受け止めて貰えなかった)で床に臥せっているのに、見舞にも行かずにケツまくって逃げる。
女性に直接本心を言って傷つけず自然に気づいてもらおうという紳士的行動なんだろうが、これはどうなんだ?
あと、最後に本心を書いて去ろうとするウェントワースを探してアンが街中走りまくる。(この男はなぜ同じ行動をとって女が動くように仕掛けるのか?)物語がほぼ静に対して最後に激情の表れとして動を持ってきたのだろうが、原作未読でありながらあえて言わせてもらえば、女が走るのはジェーン・オースティン的じゃないよね。

先日、岩井俊二の映画講座番組で「世界中で一番の乙女はおっさんの心の中に居る」
というまことに的確なハナシが出てきた。
同じオースティン作品のテレビ映画コリン・ファース版「高慢と偏見」は
おいらの中の純粋な乙女心がトキメイタのだが、これはう〜んだった。
もっと頑張ってを喜ばせてほしいものだ。
posted by tom at 14:48| Comment(0) | TrackBack(0) | Film | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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